kakaku01の日記

サラリーマン。文体はノリで変わります。

ゲームとその喜びについて

今週のお題「ゲーム大好き」

 

ゲームは人を褒める機械である、という言葉がある。

ゲームは定められたルールの中で達成可能な困難を提供し、クリアした時には「Congratulation!」と褒める。褒め方は文字だったりピーチ姫のキスだったり様々だ。

だが言うまでもなくゲームが語りかけるお仕着せの賞賛の言葉はなかなか人間には届かない。そこで壮大な物語でお前は世界を救ったのだとか何とかと言葉を変える工夫も現れたのだが、それも二回も三回も繰り返せば「もう知ってるよ」となる。だが我々は同じゲームを何度も遊ぶし、ピーチ姫のキスに何の関心も抱かなくなっても面白いと感じている。これは何故だろう。

答えは簡単で、ゲームで困難を達成したときに褒めてくれるのはゲームだけではないということだ。つまり人間が褒めてくれるのである。ここまで書いて「いやいつも誰かとゲームを遊んでるわけじゃないし、遊んだって褒めてくれる可能性はそんなに高くないぞ」と思った人もいるかも知れない。違う、友達ではない。褒めてくれるのは自分である。我々はマリオが穴に落ちるか敵にぶつかるかの瞬間にとっさに敵を連続で踏んで倒しつつ穴にも落ちなかったときに「これはすごいことだ」と自分で自分を褒める。ゲーム側はもちろんそんな細かな凄さを理解できないので、単にパタパタを踏んだスコアを計上するだけだ。最後までクリアした時にもピーチ姫のキスと平行して「俺は最後までこのゲームを遊びきったぞ」と褒めるし、「しかもワープを使っていない」とくればさらに褒める。ピーチ姫の方はワープを使っていようがいまいがキスをくれるだけだ。

このように、ゲームによってもたらされる喜びはゲームが語る賞賛の言葉以上に自分で自分を褒めることができる状態によってもたらされている。とはいえ、ゲームが与える賞賛に意味がないかといえばそうではなく、むしろ人間が己を褒めるときに重要なモノサシであり、またモチベーションでもある。人は何かをした時に「これは凄いことか?」を瞬時に判断するのは難しく、こうした判断基準を設けるのがゲーム側の賞賛の機能でもある。もしワープなしノーミスでクリアしたらピーチ姫があんなことやこんなことをしてくれるとなれば、それに挑戦する意欲はより高まり、達成時の喜びはより大きくなるだろう。いや、ご褒美がより嬉しいものにならなくても構わない。ピーチ姫のドレスの色が変わってるとかそういう些細な変化でもいいだろう。問題は「達成した困難」を「適切に判断して褒めてくれるか」であり、それはゲームの根幹をなすインタラクティビティの話だ。

ゲームの賞賛をもって人が自分自身を褒める。そういう意味ではゲームは「人を褒める機械」ではなく「人が人を褒める機会」ではないだろうか。